陛下のことは「天ちゃん」と呼んでいた。愛称ではないが蔑称でもない。明治天皇があまり英邁だったから、大正天皇は割を食った。昭和天皇には戦前は関心がなかった。戦後に生じたが諸説紛々でよく分らない。明治以前はどうか、天子様の存在はあまねく知られていた。禁裡様と呼んで見ると目がつぶれると言われていた。皆々征夷大将軍になりたがって、自分が天皇になりたがることがないことによってもその神秘的な存在であることが分る。
(山本夏彦,"誰か「戦前」を知らないか")

大英帝国の若き国王となったばかりのエドワード八世が、アメリカ国籍のシンプソン婦人との結婚に踏み切り、王位を皇弟・ジョージ六世に譲って退いた。

この報道が伝わった朝、横浜高女の職員室に入ってきた敦が、開口一番、
「イギリスの天ちゃん、味なことやるねえ」
 と言ってのけ、居合わせた一同を驚かしたという。

その驚きは、まずはスキャンダルよりも、天皇とキングの別なく「天ちゃん」という不敬な一語を発した敦に対してであったろうが、敦は、不敬か否かなどよりも、恋愛至上の生き方に強く共鳴して、率直に寸感を吐き出しただけであろう。
(森田誠吾,"中島 敦")